北京オリンピックが閉幕した。
今、テレビで閉会式のパフォーマンスを見ている。
ショーとしては大変優れている。
俺のようなへそ曲がりでも、何だか感動している気分にさせられる。
でも、この手のショーが良く出来ていて、幸せ気分がいっぱいであればあるほど、オリンピック目当ての地上げで追い出された下層市民の人たちや、チベットの人たちや、ウイグルの人たち、自分の町のことなのに天安門事件についてインタビューされると公安の目を恐れてすごすごひっこまなければならない北京市民の人たちのことを考えて、何だか違和感アリアリになってしまうのだった。
足元に幸せじゃない人がいっぱいいるのに、そう言う人たちを踏み潰して幸せな気分いっぱいのショーを楽しめるってのは異常なんじゃないかと、俺なんかは思ってしまう。
たぶん、この閉会式を見て、世界中の人たちがニコニコしてると思うんだけど、どうも俺のへそは捻くりまくっていて、そういう時ほど影の部分、裏の部分、怪しげな部分に気持ちが行ってしまう。
こういう「嫌な奴」ってのは、たぶん何があっても「良い人」にはなれないんだと思う。
だが、政府権力の演出で「良い人」にさせていただいても俺は嬉しくない。
官製の幸せごっこにつかう金があったら、普通に公共サービスや福祉事業を充実させて欲しいと思う。
だから、オリンピックのような浮かれたお祭りは、どうしても胡散臭さく見えてしまって好きになれない。
もちろんオリンピックの東京誘致には反対である。
やれやれと自分でも思う。
Why are you so serious?
2008/08/24
2008/08/15
バットマン、新自由主義、選挙か革命か
バットマンの最新作ダークナイトを見てきた。
凄い映画だ。しびれたぜ。
前評判どおりジョーカー役のヒース何とかと言う役者の演技が凄い。
ジョーカーは徹底的に世の中に絶望している。これっぽっちの良心も無い。
悪に染まった理由もウソばかりで、そのつど自分の殺意を肯定し、裏切りと人殺しを楽しんでいる。
そのジョーカーにも他人はなかなか自由に出来ない。そこでジョーカーは人々を絶望させ、あらゆる希望を奪い、他人も悪の世界に誘っていく。
映画ダークナイトは正義を貫くことがいかに難しいか、悪に染まりきった相手、コミュニケーション不能の相手にいかに自分自身の信念を守り続けることが出来るかを問いかけてくる。
で、もう途中から涙ポロポロでどうしようもなくなってしまった。
ジョーカー、怖ぇよ。どうしたらそこまで絶望できるんだよ。
あともうひとつ、youtubeで懐かしい映像をみかけた「叫ぶ詩人の会」の「12月8日」だ。
パンクな若者が戦争だらけの国際社会を糾弾し、「殺すな!救え!」と叫ぶ詩だ。
何の飾りも無い。心の中の怒り、憤り、迷い、願いをぶちまけている。
クズみたいな人生をおくって無駄な日々を繰り返し、「殺すな」と言う、そんな簡単なことすら貫けない自分たちに突き刺ささるような詩だ。
で、新自由主義の話になる。
新自由主義者は、誰かが困っているのは彼が怠けているからだと決めつけ、必要な支援を減らし、追い詰めることを正しいと考える。
経済学や政治学の立場を装って、さも訳知り顔で語るが、俺は新自由主義者と言うのは一種のサディストなんだろうと思う。
困っている人間、弱っている人間を、高みから見下ろして痛めつけることで、自分の地位や身分の安泰を確認して安心したり喜んだりする連中だ。そのためにあらゆる詭弁を弄する。
ダークナイトのジョーカーは何も持っていない。
本当の名前も分からない。住所も無い。金もない。(そもそも金に執着しない)
もちろん仲間もない。
有るのは殺しと破壊の欲望だけ。彼は正常であること一切を憎んでいる。彼は正常では無いから。
自分の殺伐とした心象風景にあわせて現実を捻じ曲げることにあらゆる情熱を費やす。
新自由主義者もジョーカーと同じ面を持っている。
彼らは、いたわりや共感する能力に欠けている。打算と友情の区別も無い。短期的な損得でしか物を考えることが出来ず、詭弁と真理の区別もない。
彼らの心の中には荒んだ荒野がどこまでも広がっている。
新自由主義者もジョーカーも、そういう自分の心象風景にあわせて現実世界の方を作り変えようとする。
愛や友情を彼らは学ばない。自分に愛が無いなら、世界全部から愛を奪いさり壊そうとする。
こう言う連中がそこまで悪辣になってしまったのは、それなりに理由が有るのかもしれない。
もしかしたら心の奥の奥の奥では、自分が間違っていることに気づいて泣いているのかもしれない。
だが、小さな子供ではないのだ。心の奥で何を感じているかではなく、実際にどんなことをしているかでしか評価できない。
こんな連中をのさばらせたら、心の奥の奥の奥に触れる前にこっちが殺されてしまう。自分が殺されなくても周りの誰かが殺される。
俺はジョーカーも新自由主義者も許せない。
俺はバットマンより割り切っている。
俺がバットマンなら躊躇無くジョーカーを殺す。
一線を越えた者に遠慮している余裕は無いのだ。
そして、既にこの国は一線を越えていると思う。
俺は平和主義者ではない。
近代民主主義がテロや暴力によって確立したことを認める。
俺は民主党では無いので次の選挙にはあまり期待していない。
前原たち新自由主義者がいる限り、民主党が政権をとってもコイズミ化する可能性があるからだ。
何たって、小泉・竹中路線が完全に正しかったと言い切る人でなしが20人以上かな。凄いよな。民主党。
俺は、日本は暴力革命以外に変わることはないと思う。
そのくらい絶望的だ。
凄い映画だ。しびれたぜ。
前評判どおりジョーカー役のヒース何とかと言う役者の演技が凄い。
ジョーカーは徹底的に世の中に絶望している。これっぽっちの良心も無い。
悪に染まった理由もウソばかりで、そのつど自分の殺意を肯定し、裏切りと人殺しを楽しんでいる。
そのジョーカーにも他人はなかなか自由に出来ない。そこでジョーカーは人々を絶望させ、あらゆる希望を奪い、他人も悪の世界に誘っていく。
映画ダークナイトは正義を貫くことがいかに難しいか、悪に染まりきった相手、コミュニケーション不能の相手にいかに自分自身の信念を守り続けることが出来るかを問いかけてくる。
で、もう途中から涙ポロポロでどうしようもなくなってしまった。
ジョーカー、怖ぇよ。どうしたらそこまで絶望できるんだよ。
あともうひとつ、youtubeで懐かしい映像をみかけた「叫ぶ詩人の会」の「12月8日」だ。
パンクな若者が戦争だらけの国際社会を糾弾し、「殺すな!救え!」と叫ぶ詩だ。
何の飾りも無い。心の中の怒り、憤り、迷い、願いをぶちまけている。
クズみたいな人生をおくって無駄な日々を繰り返し、「殺すな」と言う、そんな簡単なことすら貫けない自分たちに突き刺ささるような詩だ。
で、新自由主義の話になる。
新自由主義者は、誰かが困っているのは彼が怠けているからだと決めつけ、必要な支援を減らし、追い詰めることを正しいと考える。
経済学や政治学の立場を装って、さも訳知り顔で語るが、俺は新自由主義者と言うのは一種のサディストなんだろうと思う。
困っている人間、弱っている人間を、高みから見下ろして痛めつけることで、自分の地位や身分の安泰を確認して安心したり喜んだりする連中だ。そのためにあらゆる詭弁を弄する。
ダークナイトのジョーカーは何も持っていない。
本当の名前も分からない。住所も無い。金もない。(そもそも金に執着しない)
もちろん仲間もない。
有るのは殺しと破壊の欲望だけ。彼は正常であること一切を憎んでいる。彼は正常では無いから。
自分の殺伐とした心象風景にあわせて現実を捻じ曲げることにあらゆる情熱を費やす。
新自由主義者もジョーカーと同じ面を持っている。
彼らは、いたわりや共感する能力に欠けている。打算と友情の区別も無い。短期的な損得でしか物を考えることが出来ず、詭弁と真理の区別もない。
彼らの心の中には荒んだ荒野がどこまでも広がっている。
新自由主義者もジョーカーも、そういう自分の心象風景にあわせて現実世界の方を作り変えようとする。
愛や友情を彼らは学ばない。自分に愛が無いなら、世界全部から愛を奪いさり壊そうとする。
こう言う連中がそこまで悪辣になってしまったのは、それなりに理由が有るのかもしれない。
もしかしたら心の奥の奥の奥では、自分が間違っていることに気づいて泣いているのかもしれない。
だが、小さな子供ではないのだ。心の奥で何を感じているかではなく、実際にどんなことをしているかでしか評価できない。
こんな連中をのさばらせたら、心の奥の奥の奥に触れる前にこっちが殺されてしまう。自分が殺されなくても周りの誰かが殺される。
俺はジョーカーも新自由主義者も許せない。
俺はバットマンより割り切っている。
俺がバットマンなら躊躇無くジョーカーを殺す。
一線を越えた者に遠慮している余裕は無いのだ。
そして、既にこの国は一線を越えていると思う。
俺は平和主義者ではない。
近代民主主義がテロや暴力によって確立したことを認める。
俺は民主党では無いので次の選挙にはあまり期待していない。
前原たち新自由主義者がいる限り、民主党が政権をとってもコイズミ化する可能性があるからだ。
何たって、小泉・竹中路線が完全に正しかったと言い切る人でなしが20人以上かな。凄いよな。民主党。
俺は、日本は暴力革命以外に変わることはないと思う。
そのくらい絶望的だ。
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